順番が違うだけで結局は一緒。だと思うこと。

毎月一回、一瞬だけスーパーサイヤ人になる。
白髪(シルバーより)になるのには一度ブリーチで色を抜いてこの色になって、これに紫を入れて白に近づけてく。コーチング美容師のがーすーこと菅井くんが巧みの技で綺麗に染めてくれます。
こんなの「白髪にしよう」って思わないと知らないことだし、この経験ってのは大げさだけど僕のみる世界を変えた。
なにかを変えたいのならまず自分を変えろ
どこかでそんなセリフを聞いたことはあると思うけど、そんなことを初めて経験したのは20歳の頃。借金で荒れくれてた時。
「こんなクソみたいな世の中」って無力な若造が世間に唾を吐いてた時、友達の家の風呂場でブリーチ3回くらいして金髪になり、ピアッサーでバチバチと耳に穴を開けた。
高校デビューの『今日から俺は!』の三橋みたいだね。

平成から令和になった時と同じように空気や時間はなにも変わっていないはずなのに、金髪でピアスでウォレットチェーンをチャラつかせて外に出るとなぜか世界が違って見えた。人が避けてる。確実に冷たい目線。
兄貴が乗ってたフルスモークで車高を落とした初代トヨタ・アリストに乗ると周りの車に警戒された。なんだか気分が良かった。

あれから約20年。
昨日、Abemaプライムの傑作選をみてたら「会社をすぐ辞める若者」の話題。(先々週くらいの放送分だったかな)
なんだかとても筋が通ってる。妙な説得感があるんだけど、隣の平林さんは納得いかない表情。この世代間のギャップってなんなのだろう?と観ながら必死に考えてました。
僕の世代はちょうどこの世代間にあたるしね。
経験と思考の逆転
ふと思ったのが「経験と思考の逆転が起きたんじゃないのか?」と。
スマホがガンガン普及して、わからないワードなんかすぐに調べられるようになった。世界の様々な生き方を知ることができるようになったことで、若い世代の人たちは“賢さ”を手に入れてる。
ギリ昭和な僕たち世代やその前の世代の人間は“経験をしないと”知識を得られなかった。
先人の言うことしか頼るものがなく、嫌でも怒鳴りに耐え、飲み会に参加し、パワハラセクハラも耐えることでしか思考や知識を得られないものだと思ってた。
つまり、野生の思考のように経験が先にくることで思考や賢さは後回しになり後になって初めて「あれ、実はあれって違うんじゃない?」と気づく。それを知識として学ぼうとした人間は新たなステージに進み、経験だけで進んだ人間はそのまま終身雇用に挑み続けた。
経験と知識は1セットでレベルが上がる
昭和世代はそれで「感情」を獲得した。よく言えば「温かさ」「温度感」。悪く言えば「お節介」。理屈や理論をすっ飛ばして感情だけで動こうとする人間が増えたことで、体罰的な教育や指導が根強く残ったかもしれない。

逆に知識や賢さが先に来た若者はどうか?
知識が先行することで経験から得る「温かみ」が少ない。きっと世代を越えた人間から見たら“中身が無くて温もりがない感覚”を感じるのかも。

その知識と経験の逆転が世代間での軋轢を生み出してるのかな?と思ったのです。
でも1つ言えることは、知識と経験はどちらか片方だけではレベルは上がらない。
若かろうが年寄りだろうが、知識と経験1セットでレベルが上がるんじゃないのか?と。
何度も出てくるこの本だけど、この本の中にもこう書いてある。
一般的に物理的世界を使ったほうが思考はうまくいく
裏を返せば思考は物理的世界を使わないとうまくいかないってことにもなる。

僕の予想だけど、経験を先にした昭和から平成初期世代が経験ののちに「ん?」と感じた現実の違和感と同じように、知識や賢さを先に得た平成中期から後期世代も、知識や賢さの先に「ん?」という現実の違和感を感じると思っている。

結局、知識が先か?経験が先か?の違いだけであって一緒な道を辿ってるのである。
成功する(仕事や人生において)人間が、思考と経験を1セットとしてレベルアップしているのはきっといつの時代も一緒なんだ。

僕はそう思うのです。

ちばつかさ こころとからだの中身から

元プロ野球選手の柔道整復師 こころとからだのコーディネーター ちばつかさのWEBサイト

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