憧れ、大好きという呪縛
憧れは憧れとして
基本的に僕は大好きな人、憧れの人ができると徹底的に調べて真似をする。気づくとその人のクセとかが移ってたり。はじまりは中学生の時、オリックスブルーウェーブの全盛期だったあの頃イチローというスーパースターが現れた。右投げ左打ち。誰もが真似した振り子打法を真似したくて、右打ちを左打ちに変えました。
純粋な右利きだった僕は、箸も歯ブラシも、ベルトを入れる方向まですべてを左で過ごすように。僕の右投げ左打ちは高校1年生からスタートしている。
そんな感じで憧れの人になりたくて真似することって多々あって、僕は異常なまでもそれが強い。昔はテレビやラジオ、生で観に行くくらいしかできなかったけど今はスマホですぐ研究ができちゃう。よい時代だ。
仕事が超絶暇な時にYouTubeでその時気になる人を研究しまくってると話し方まで乗り移ってる時があるんです。
たとえば、キングコング西野さんの考えが面白くて本読んだり動画観まくってたら「えーっと」とか「たとえば」の言い方がそっくりになってた。今はエセ福井弁に戻ったけど。
先日登場した松井稼頭央さんも、憧れすぎてバットもナイキにしたし、打ち方とか守備とかも真似しまくってた。
とにかく、大好きになると我を失ってしまうのです。
我を・・・失う?
で、好きすぎて周りがみえなくなるんだけど、実はそこに危険があったことに気づいたのです。1番みえなくなっちゃいけない“自分自身を見失う”っていう危険に。
憧れを持つことはステキなことだし、真似から始まるのは人間みなスタートは親の真似から始まるからいいとして、“憧れすぎる”と自分ってなに?がわからなくなったり、憧れは憧れのままだからその存在には決して追いつけないことに苦しみを覚えたりするのです。
※ノックとゴルフは右っていう不思議
他人は他人。自分は自分
限りなく同じことを繰り返しても、憧れの人にはなれないんです。絶対に。だって遺伝子が違うんだから。持ってるポテンシャルも違う。生まれ育った環境も違う。性格もなにもかも違うんだから。
例えばイチローさんのものまねをするニッチローさんがいます。おそらく誰よりもイチローさんを真似してると思いますが、じゃあニッチローさんが偉大な記録を出せるか?っていうと出せないんです。ニッチローさんの活躍の場はものまねという舞台。
そう考えた時、僕は憧れを求めすぎて無理に自分を捨ててきてしまっていた可能性も高いわけです。
ハッキリ言ってショートよりキャッチャーのほうが性格的にも肩の強さ的にも向いていた。(高校生まで嫌々キャッチャーをしてた)
なんなら野球より個人スポーツのほうがよかったとまで思う。
今の時代、本当に簡単に他人のことを知るツールがあふれています。野球で言えばスローモーションで憧れの選手を研究できる。
だけど、それをしすぎると自分が何者なのか?がわからなくなることがあることもたしか。憧れを持ちつつ、真似しつつ、それを“自分”っていうオリジナルにスパイスとして付け加える程度にしておかないと、どんな料理を作りたかったのかわからなくなっちゃうんだ ね。
自分以外みな師。なんて言うけど、他人と同一化してしまう前に自分自身が自分と同一化できるように仕向けていくことで生きやすさが生まれるのかもしれませんね。
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