結局、言葉に負ける弱さ。それならこう考えてみる。
どこからともなく「平成最後の〜」「平成が終わる」って言葉が聴こえてきます。
「なんだよ。俺は平成最後とかかんけーねーし」みたいな態度でいるんだけど、やっぱりどこかで気にはなってる弱い自分がいるわけです。くそッ。
思えば平成元年は8歳。小渕さんが「平成」ってのを掲げてるあの映像もはっきり覚えてるし、小学生から今までのまさに人生の基盤を作る時間を平成とともに過ごしてきたんだけど、、、やっぱりどこかで「俺は平成最後なんかかんけーねー」「いつものように普通に過ごす」とか言って粋がってるわけです。
年号ってのは人間が作った区切りみたいなもので、自然界にはなんの意味もなくて、平成から令和になったからって空気の色が赤に変わるわけでもないし、時計の数字に13が加わるわけでもないし、人間の目が3つになるわけでもない。明日も普通に時間は1秒1秒カチカチと進むわけです。自然災害が起きなければ、明日も当たり前に朝が来る。
どう捉えるかはその人の自由
当たり前にある目の前の事象にどんな意味を与えるか?なんてものは個人の自由だし、それは個人の思考に委ねられていて「あー、平成も終わっちゃう」って思うのか「令和がはじまるぞ!」って思うのか「まぁいつものように変わらないね」って思うかはその人次第なんだけど、何万人の人の心と体と向き合ってきて気づいたことは、やっぱり人生においてうまくいかないって人は捉え方とか考え方をマイナスにしてるクセがあるんじゃないか?って。
で、「どうせ私なんて」「いいことなんかなんもないよ」なんて言ってる人の周りにはおんなじような人ばかりが集まってて変な渦みたいなのを作り出してたりもします。
まぁ人間生きなきゃいけないって言われてる中で、うまくいかなかったり嫌なことばかり起きれば神様を恨むのは自然な流れ。自分を責めたくないしさ。
自分を責めたくないし、自分は普通だなんてみんな思うから視線は自分じゃなくて周りにいっちゃう。んで批判だの文句だの言うわけだ。僕も失意のどん底にいた時は「幸せそうなやつみんな死ねばいいのに」って本気で思ってた笑
そう思うのも個人の自由なんだけど、でもやっぱりそう思ってて目線が周りばかりにいってると負のスパイラルから抜け出せやしないんだよね。5年くらい抜け出せないままいたし、「抜け出した!」と思ったら未だに欠陥だらけの自分に出会うし。
平成最後、令和が始まる
せっかくだからこの機会にもう一度自分自身を見つめ直して。どんな自分なのか?どう生きていたのか?これからをどう生きたいのか?車のメンテナンスをするように、自分点検でもして人生走りやすくしたらいいかな?なんて結局「平成最後」って言葉に負けてこんな文章を書いてる弱い自分ってのに気付かされた今日なのです。
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