もやしを食べ続けたあの日。
僕の勝手な行動で結婚して以来妻を振り回しまくってきたんだけど、10年で何が変わったかというと“レタスを食べられるようになった”くらいの変化は起きてる。
というのも、
「人生一回きり!やりたいことを後悔せずにやる!」なんて生活危機を顧みずにガツガツやってきた(結婚してから学生になったり、ゴミ屋敷のおじさんのとこにいきなり行ったり)結果、家計的にものすごいしんどい時がありました。
原宿にお店出した時なんか半年間無収入だったこともあったっけ。
で、その時の食事って毎日ほぼもやし料理で、月の食費とかもカツカツにやっていたわけです。
「今日は何売ろう?」は流行語だったかも。
「笑っていればなんとかなる!」なんて家族を洗脳しようとするけど、不安は募るよね、そりゃ。でも僕自身はどんな不安だろうが笑ってるしかないし、人生を信じるしかないわけです。家族を引っ張っていかなきゃならなかったし、不安を少しでも減らすために笑うしかなかった。
それが功を奏したのかわかりませんが、ちば家の“幸せのハードル”をめっちゃ下げてたんです。もやしばっかだったから、レタス食べた時のあの感動といったらすごいのよ。
外食なんか当時は夢の世界だった。
車も28万円のボロボロのオデッセイに乗ってたし笑
それでも笑いが絶えなかったし、ちっちゃなことで幸せを感じることができていたんです。ごく稀に行く外食は幸せそのものだったね。国民が初めてテレビを観た時の感動のように。
みたいな話を妻と話してて思い出したんだけど、人間「慣れ」って怖いもので。
多分あの頃に比べると幸せのハードルも少し上がっちゃってるんだよね。
欲がどうしても出てくる。
毎日レタスを食べられるようになれば、レタスに慣れちゃうんだよ。あれだけ感動したのに。
今はレタスが畑で採れるからいいとしても、「生活環境が変わった」とか「それなりに稼げるようになった」とか「認知度が上がった」とか、苦労してればしているだけ
「俺、頑張ったんだぞ」感が出てきちゃう。
皆が笑ってる間、必死だったんだぞ!ってのをこうやって言いたくなっちゃうのも、人間の承認欲求みたいなものなのかもね。
「先生は先生らしくそのままでいてほしいし天狗にならないでね」
って先日クライアントさんにも言われた。
妻とも「絶対に天狗にはなっちゃダメだね」って話もした。
大したこともしてないし、社会的に言ったらクズみたいな生活をしてきたんだからこの先もちょーしにのんなよってお告げだね。
こうなったら絶対に天狗にならないように、出鼻挫かれまくろう。そのためにはチャレンジし続けよう。そして、あの頃をいつも思い出して、周りで温かくしてくれる人に感謝し続けよう。そう心の中に誓うのです。
でもよく考えたらお金なんか使わなくてもただバカみたいなことでゲラゲラ笑ってたり、汗だくになって子供と追いかけあったり、そんなことしてるのが1番楽しくて、もやしはもやしではしゃぎ回ったあとでお腹空いてりゃめっちゃ豪華料理だし、服も毎日同じのでいるのが楽チンだし。
幸せのハードルなんか下げたままでいい。
子供たちみたいに、少しのことで100倍楽しめるような大人でい続けたい。
そう思いながら今日も当たり前に生きるのです。
人間、よいことも悪いことも慣れる生き物。
とりあえず生きてることにだけは感謝を忘れずにいたいものですね。
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