思考のドツボにハマった土曜日の夕方。
今日は朝一から奉仕活動。自然の中に入り込むと何も考えなくていいし、考えても仕方なくなるのでスッキリする。朝から体動かすってのもスッキリする要因。
昨日、思考のどツボにハマって後だったからちょうどよかった。
妻が必死に聴いてくれた昨日のモヤモヤ。
こんなめんどくさいやつでごめんよ。
ブログとかコラムとかを書いてる時「事実」と「主観」っていうものがあります。
事実は例えば“昨日の東京は晴れだった”という共通認識みたいなやつ。主観は“昨日は晴れた感じだった”という自分がどう感じたかというもの。
で、それを考えてたら「事実」ってなんだ?って昨日考え出したら止まらなくなって頭が痛くなりまして・・。
結論からいうと
当事者から離れれば離れただけそれは事実ではなくなり、「誰かが事実と言ってた」という事実に変わる
あー。もうこの時点で迷いの森に迷い込んだ。
冒頭の写真は僕が4年前に名古屋で体験した“事実”だ。でも、この画像が捏造かもしれないし、嘘かもしれない。僕とこのおじさん以外はこの体験を知らないわけです。
僕の妻は僕を通じて活動を知っています。それは妻が経験したことではなくて、僕の経験を通じて知ったこと。だから、“僕の体験を聞いたという事実”になる。
それがどんどん派生していったら、どれが事実なのかなんて迷宮入りになる気がしているわけです。
“地球は自転しながら太陽の周りを回っている”
これは事実ですか?それとも事実じゃないですか?
まぁ一般的に言えば「事実です」ってなる。
でも
“なんで地球は自転していて、太陽の周りを回っているんですか?”て質問が付け加えられると答えることができる人が研究者くらいになっちゃいます。
ということを踏まえると“事実”というものってほとんどないんじゃね?って思うのです。
「統計で出ています」というのは、統計をとった人がいて、それを知ったということ。
学問なんていうのも先人がすでに発見したもので、勉強ができるというのは“事実”を自分で探り当てた訳ではなく、“事実を発見した人が言ってることを知っている”だけになります。
ってことはだ。
現実世界っていうのは、今その人自身が五感で感じたものであって、それ以外の全てのものは“「事実だ」と確認した人が言ってる事実を知っている”だけにすぎないんじゃないのか?
野生の思考って本があるけど、やっぱり学問だけでなく、自分が体験した“事実”と誰かが発見して事実を学んだことが合致した時に初めて現実っぽくなるのかなと。
つまり簡単にいうと、“
“自分の世界だけが事実”だから、それを大切にしたらいい。
そう思うのです。
空は青い!って言ったって、青に見えない人もいる。カレーライスの香はこんな香だ!って言ったって違う香がする人だっている。
そうなった時
空が青いというのは事実じゃなくなり
カレーライスはあの香だというのは事実じゃなくなり
私はこうだ。という“主観的事実”(そんな言葉あるのかな?って調べたら、おんなじようなこと考えてる人がいた!)なのかな。
主観的事実と客観的事実。
んーー。
自分のこと以外、というか世の中すべて客観的事実なんじゃない?
このリンクの文章だと、
心臓に問題ないのは検査の結果なだけであって100%ではないね。先生が心臓自体なら「俺、問題ないよ」って事実を語れるけど、それもまた事実じゃ無くなる。心臓くんは原子の集まりだから原子レベルでみたら問題ないかもしれない。
原子くん(ハラコくんじゃなくてげんしね)レベルまでいったら始めて「問題が起きてます!」って事実を語れるのかな。
あっ、またドツボにハマってきた、、、。
このめんどくさい文章。誰かわかってやってください。
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