子供たちは○○な状態に群がってきた

昨日は東京からノッチ先生を呼んでなわとび教室。僕はコーディネーターなんだけど、この髪の色していると大抵なわとびの先生に間違われる。開始直前まである僕に対する先見の明は一気にノッチ先生に。

お昼ご飯は5年生と3年生と一緒に給食を。とりあえず牛乳はもう瓶じゃなくてパックだったね。

子供たちは僕たちに興味津々。

学校では“普通“を目指して教育を受けるかもしれないけど、見た目が普通じゃない僕や経歴が普通じゃないノッチ先生がその普通のところに混じるっていうよくわからないカオス状態。

ノッチ先生のサインならまだしも、僕のサインなんてもらってもなんの価値もないのに“普通じゃない“(元エレファンツはまだまだ使える!)だけで子供たちが群がってきました。

プロっていうのは、

いかにして普通から逸脱できるのか?

にかかっている。普通であればあるほど(「普通」を調べると“広く通用する状態のこと“って書いてあります)普通であって、プロではなくなってしまう。

いかに普通から逸脱できるか?

は、子供の頃にプロ野球選手を目指した僕にとっては喫緊の課題だったわけです。

今も、商品を売るわけではなく僕自身を売るためには普通では売れない。普通じゃない状態じゃなきゃ興味を持たれないから、“普通であることが苦痛“という学校教育では習わない矛盾のようなものが起きています。

その点で金髪は絶大な効果があるんだけど。

なにかをしたいのなら、普通でいたらダメなんだよね。普通でいないためにはまず普通がどの基準なのかも知らなきゃならないね。

学校に行くたびにいろんなことを考えさせられます。

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