そういえば、なんで小学校にあれがあったんだろう?とふと思った。

福井もようやく冬っぽくなり雪がうっすら積もる日が増えてきた。どかっと降りまくると雪かき大変だから、これくらいに中途半端に降ってほしいというわがまま。

子供がiPadをみてる姿をみてふと頭に思い浮かんだことがあって、(こうなると僕の面倒臭さが発動するんだけど)

そういえば、最近あれみないな

って。そのあれってこれ↓
最近の小学生は名前も知らないかもだけど

トーテムポール

ね。

小学校の頃、校庭の端っこにトーテムポールが立ってて登ったりしてた記憶を思い出したの。

で、トーテムポールってそういえばレヴィ=ストロースの『野生の思考』って本に出てきたなぁと思い出し、なんだったっけ?ともう一度調べ直し。

野生の思考ってこれね。

子供たちはテクノロジーの進化の中で、どうしても自然から目を離す機会も減ってきてるのかもしれません。

大人もだけど。

道端に咲くタンポポの花弁の秩序なんかにふと目をやることなんかなくて、「スマホの画面の中が世界の全てだ」なんて思っちゃってるような気がする。

「トーテム」ってのは調べると
特定の集団や人物、「部族」や「血縁(血統)」に宗教的に結び付けられた野生の動物や植物などの象徴のこと。


って出てくるんだけど「は?」って感じでしょ?

“歴史“なんて存在しないはるか大昔とか、アマゾンの奥地に住む先住民は、自然や野生動物と人間との間に構造的な秩序を結びつけてそれをシンボリックに扱っていたみたい。(この説明が合ってるかわからないけど)

で、人間は自然の構造と同じ構造を持っているっていうのが構造主義を打ち出したレヴィ=ストロースの話なんだけど、まぁ難しい話は別として、子供たちには最低限自然的な関わりを持たせたいなってなんとなく思うのはそこなのかなぁ。

スマホの中ってあまり宗教的なシンボルみたいなものって転がっていなくて、あったとしてもそれは人工物だったりするわけです。

最近の高校生なんかはスマホの中に社会が出来上がっていて、スマホがない時にはなかった新しい社会構造があったりして楽しそう。

でも、スマホからふと目を反らして足元を見た時に、遠くを見た時に、天を仰いだ時に見えるのは一定の秩序を保った自然が広がっていて、昔の人はそこに宗教的感覚を見出してたんだと思う。

信仰心は時に人を救ったりするからね。

なんで僕が通った小学校にトーテムポールがあったのかは知らないけど、なにか大切なメッセージがあったのかもしれないね。

例えいじめられたとしても、きれいな花や動物たちをみてなにかを感じることができれば、いじめなんてものがちっちゃく見えたりするかもしれない。

近代に乗っかりながら、野生的な感覚を忘れないように子供たちには泥まみれになってほしいなんて思った月曜日の朝なのです。

ちばつかさ こころとからだの中身から

元プロ野球選手の柔道整復師 こころとからだのコーディネーター ちばつかさのWEBサイト

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