ソーシャル・ディスタンスと愛
ソーシャル・ディスタンスなんて洒落た名前で人と人との距離を無理やり作らされているんだけど、いざ「離れなさい」って言われると急に人恋しくなる。
「いつでもくっつける」という自由の中の距離と、「くっつけないという制限」の中での距離ではその意味も重みも違う。
離れたくない、あなたのそばにいたい。それでもその気持ちを押し殺し表に出すこともなく「お国のために」と離れる決意を“しなければならなかった“あの時代、こんな洒落た“ソーシャル・ディスタンス・“なるものとはわけが違ったはず。
“運命によって“諦め”を得た“媚態”が“意気地”の自由に生きるのが“いき”である“
そう九鬼周造は日本人の「いき」について語ったけど、それは“愛“にも置き換えることができそう。
黙ってじっと諦める。手を伸ばせば届きそうだけど諦める。愛はきっとそんなことすら許容する。
それがなんだ。ソーシャル・ディスタンスなんて洒落た名前をつけやがって。
ダメって言われると触れたくなるじゃないか。
オンラインMTG、リモートワークでテクノロジーの進化を改めて知ったけど、人はいつまでも人恋しい生き物だっていうことも改めて知った。
この事態が治まったあと、価値としては希薄になりつつあった家族とか人同士の交流が見直されそうな気がする。
今まで恋愛に億劫だった若者も、スイッチが入る気がする。
これは勝手なオッサンの妄想である。
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