「引きこもり」という言葉があること。そしてそれを「危険」と思うことが危険な気がする。

仏教の思想の中に空観・中観・仮観っていうのがあって、空観は「無」。無に実態を持たせたのが仮観、さらにそこに機能を持たせたのが中観でそれをひと思いに観念することを一心三観(いっしんさんがん)っていうらしいです。

面壁9年、脚が腐るほどの修行をした達磨。
自分の苦しみに向かい続けるその姿は、「無」を求めたのかもしれません。

空観である「無」はなによりも安全で平和です。だって、「無」なんだから。
でもそこに実態や機能を持たせた時にそれがいろんな意味に変わるんだろうと。

それを踏まえて。
職についていない20代のタクを「仕事だから」って無理やり外に出そうとした時、極度な違和感を感じたんです。

「なんで生きてるのにこれ以上を求めなきゃいけないんだろう」って。

社会システムに合わないのを無理やり合わせようとすること。「引きこもり」といって避難すること。「他と違うから」という理由で問題として解決させようとすること。

そんないろんなことに極度な違和感を感じた。問題なんてどこにも無くて、それを問題だと機能を持たせてるのは社会なんじゃないのか?って。

「引きこもり」件数は年々緩やかに上昇してるけど、犯罪件数っていうのは減少しているんだって。

そう考えると、必ずしも引きこもりが犯罪に繋がるとは考えにくい。僕もタクと喋っていてとても犯罪を犯すなんて思えなかった。

人間は仏教の「空」ではあるけれど、生きてそこにいれば仮になる。さて、そこにどんな機能を持たせるのか?が問題な気がするのです。

「生きていればそれでいい。引きこもりだろうが働いていようがみな自分の煩悩と戦って必死に生きてるんだから」って機能を持たせるのか?

「働かないなんて何事だ。社会に出て必死に人の役に立て」という機能を求めるのか?で大きく態度って変わってくるんじゃないかな。

不登校もそうだし引きこもりもそうだし、「その他大勢がそうだから、お前もそうしろよ」とかって、引きこもりとか不登校が認められたら我慢して働いてる、我慢して学校行ってる俺たちはなんなの?って思ってしまうってのもあると思うんです。
“我慢してる俺たち”を正当化するためには、そうじゃない人を否定しなきゃならないね。

でも思うんです。

僕はね、登校拒否が世界中で当たり前になっても学校行くし、引きこもりが認知的に「ダメじゃないよー」って世界でも表に出るよ。
仕事したいし学びたいから。

だから、誰かが引きこもろうが登校拒否しようが僕は学校に行くし仕事をする。
しかもだからといって「引きこもりよくない」とも思わないし、「登校拒否すんな」とも思わない。

自分の「無」の人生に実態と機能を持たせるのは自分自身であって、それで生きてるのならそれでいいし、税金払ってその人が生きていられるのなら「税金がもったいない」なんて思わない。

投げ銭の接骨院してるけど、多く払ってくれたり、出資してくれる人が躍起になって「働いてない、働きもしない奴にこのお金を回さないでくれ」なんて人は1人もいません。

みな意外と自分の生活がそれで成り立ってるのならそれでいいと思ってる。

でも1番そう思えないのが「家族」なんだよね。「家族」が1番“他と違うこと”に違和感を感じてそれを嘆き隠す。

「うちの子、外の社会に合わないから家にいるよー」
「まぁ楽しいならそれでいいよねー」

なんてやり取りできるならそれがいいじゃんね。でも世は

「うちの子引きこもっちゃって・・」
「それは問題だ。なんとかしなきゃいけないね」

でしょ?

働かなくても生きてはいける。
社会システムにどうしても合わなくて働けないなら生活保護もある。

本人が「なんとかしたい」って思うのは社会でそれを「問題だ」とするからでしょ。

問題だという世界の中に、誰が出ようとするんだ?
出たら糾弾される場所に誰が出ようとするんだ?

家の外は「問題」という弾丸が飛び交ってる。そんなとこにが誰だって出て行きたがらないね。そんな苦しいことしたくないね。

僕は生きてりゃそれでいいと思う。
生きていられるのならそれでいいじゃないか。

そう思うんです。

外に出てもなにも飛んでない世界。
それを作っていくことで、皆が外に出やすくなるんじゃないのかな。


ちばつかさ こころとからだの中身から

元プロ野球選手の柔道整復師 こころとからだのコーディネーター ちばつかさのWEBサイト

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