当たり前が当たり前じゃなくなった時なにができるのか。

GWっぽくないGWはあっという間に過ぎた。
自粛の中でできることを探しながらオンラインでコーチングをする。

家族といる時間が増えた分、家族と対話する時間も増えました。新型コロナをきっかけとして会話が増えることは、家族や夫婦にとってはとても大事な時間なんだと思う。

子供たちにもよい学びの時間な気がしていて、飽きるまで家にいれば行きたくないと思ってた学校に行きたくなる気持ちとか、新型コロナがきっかけで大人が壊れていく姿とか、いろんなものを違った視点で見れることは“当たり前“の中ではなかなかできない。

生きた魚を釣って食べることも食育だし。
僕たちが“生かされている“ことに気づくし。

公園で走り回ってゲラゲラ笑うことにお金がかからないことも知るし。

なにが“幸福感“でなにが“幸せ“で、どれが“喜び“で、どんなものが“不都合“や“不幸感“なのかもこの当たり前じゃない状況だからこそ見出せているんじゃないかなって思う。

それを子供たちと共有して対話して一緒に学べるって最高やね。

昨日は姉妹でケンカして大泣きしてたけど、それは妹やお姉ちゃんが当たり前にそこにいるからだよね。

当たり前じゃなければケンカなんかできないんだから、思いっきりケンカもすればいいとも思う。

一つ一つが貴重な体験記。

東日本大震災でも当たり前が一瞬にして当たり前じゃなくなった。

今回もそう。

これからもそんなことが腐るほど訪れると思うけど、

その中でなにを見出せるのか?

は今を生きることにとって、1番大事なんじゃないかって思うんだ。

先日、とある人と哲学について語った。
その中で

「もし自分の子供が殺されたらどんな感情を抱くか?」の僕の哲学に、サイコパスという名がつけられたんだけど、僕はそんな当たり前じゃないことが起きたとしても、許せる人でありたいと思っているのです。

ちばつかさ こころとからだの中身から

元プロ野球選手の柔道整復師 こころとからだのコーディネーター ちばつかさのWEBサイト

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