チャレンジできない環境は、僕たちが作ってしまっている。
男子便所って大と小が分かれているから、どっちをしているのかすぐにバレる。
っていうのは大人になるとどうでもいいんだけど(いや、やっぱり1人じゃないと落ち着かない)、子供の頃はそれが冷やかしの的になってた。
授業中に手をあげることも、トイレに行きたいと言うことも、
間違いを認めてもらえない世界
にいると思っている子にとっては精神的苦痛の何者でもない。
普段から「あれはするな」「これはするな」とガミガミと言われていれば、そりゃ挑戦なんかしたいと思わなくなる。
僕たち日本人は、そうやって自己犠牲というものを叩き込まれて“しまった“。
それが謙虚さだと勘違いして声をあげない自己を製造された。
間違ってもいいんだ。
間違っても誰も笑わずに拍手をしてくれたり、きちんと優しく教えてくれたりする環境にいることは
チャレンジは楽しい
そう思うはず。
きゃりーちゃんが#検察庁法改正案でツイートしたことが反響を呼んだけど
声をあげる→
違うなら違う、正しいなら正しいと判断をもらう→
もう一回あげた声を確認する→
学ぶ→
そして学んだことを考えて変更ありか変更なしかで声をあげる
この一連のプロセスがめちゃめちゃ大切だし、このプロセスがあって初めて形になる気がするんです。
声をあげた。反論があった。声を消した。
これじゃ小学校のあの「トイレに行きたい!」「先生!こうだと思う」が怖くて言えないあの状況と一緒じゃないか。
議論を巻き起こして、それで皆が考えてまた対話をすることが大事なのに、僕たちは家や学校で“正しいこと“しかできなくなった。
正しいか正しくないかなんか曖昧だし、それでも正しさを探すなら失敗が必要なのに。
ナイストライ!
みんなでそうやって温かく包むことは、子供たちがみているこの社会で必要なんじゃないか?そう思うのです。
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