7月で借金の1つ約240万を完済する。借金はしないほうがいい。でも、したからといって死ぬわけじゃないし死ななくていい。
(※写真はコロナ禍前のものです。と一応言っておかないと石投げられそうなので)
まぁ僕の人生、20歳から借金と共に生きてきたような感じで、堂々と言うことでもないけど“借金体質“になってしまっているのは否めません。
僕の性格的な気質がバッチリあってしまったギャンブル、特にパチンコパチスロ(公ではギャンブルじゃなくて遊技だけど、あれはギャンブルだ)に没頭して一回吹っ飛び自殺しようとまで思った。
借金をほぼ返済して、結婚して子供産まれてから専門学校に行きながら原宿・竹下通り横にお店を出してオーナーとうまくいかずに2度目の吹っ飛び。ここでまた一気にマイナスに転じた。
2度目の吹っ飛びはギャンブルじゃなくて仕事だったから内容が違えど借金であることには変わりはない。
今も大きな返済をしながら仕事というか自分自身に価値が出るように大学通ったり子育てやら野球レッスンやらコラム書いたりやらで修行しながら日々を過ごす。
沢山の人に支えられて出資してもらいながら学んだことをシェアしてる。まるでサンガか托鉢かって感じ。有難い限りだから僕は逃げることなく学び続けるのが使命であるわけです。
7月で借金の1つ約240万が終わる。
1つってことはまだまだあるんだけど笑
この終わり間近の借金を前に、なぜか妻と感慨深くなるっていう現象が起きてる。
額が減っていくのと反比例して家族は強くなっていったからなのかもしれない。
そう思うと“不足感“はもしかしたらある意味幸福感をもたらしてくれる材料になるかもしれないし、それがないと人は逆に“飢える“ような気がする。
なぜなら、僕より遥かにお金周りがいいとか、借金がない人とかが、あきらかにお金がない僕のところに悩みを相談に来るからだ。
つまり、幸せは量的なものではないってことなんだよね。だって量が多いのなら僕より幸せだって思う人がほとんどなんだから。
満たされていることが幸せなんじゃなくて
満たされようとすることが幸せなんじゃないか
僕はこのコロナ禍でそれを感じた。
人に会えない、美味しい料理をお店で食べることができない、触れ合えない。
満たされていないからこそそれを渇望する。
しかも、
人間は一生満たされない
ことも知っている。
どんなにお金持ちでも“満足“を渇望するから。
周りを見渡して青い芝が羨ましくなるんだから。
だから、失うものがなくなった人間は死ぬべきじゃない。むしろ、最高の幸せへの切符を手にしてる。
死ぬまでに使い切れないんじゃないかってくらいの切符を手にしてる。
死ぬんじゃない。
金がないことくらいで死んでたら幸せが逃げる。
僕は2回吹っ飛んだけど、今が1番幸せだと思えるのです。
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