現場でみてきた“罰走“の心理的問題点。なぜ「喝!」を言いたくなるのか?

何年か前に、現オリックスの西村監督と野球レッスンを一緒にやってたんだけど、もちろんここには“罰走“なんてなかった。

プレジデントオンラインの記事。
Twitterでダルビッシュ選手は「怒ってない」と記事のタイトルに苦言を呈してたけど笑

ちなみにダルビッシュ選手がドラ1で日ハムに選ばれたあのストライキの年に僕も日ハムのテストを受けて最終テストまでクリアしつつ入団できなかったほろ苦いよい思い出。

入ってたらダルビッシュ選手と同期入団だった!

まぁそれは置いといて。

プロの世界でもいまだに“罰走“が行われている現状は間違いないってことだと思うんだけど、小学校1年生から28歳まで野球をして、その後もチームに関わったり運営サイドでチームをみたりとしてきているけど、罰走、罵声、ため息、などなどそんなものは当たり前のように根深く残る。

「走ること」に関しては僕にはわからない。筋トレがどこまで効果があるのか?長距離走が無意味なのか?はわからないけど、どうしてもこの感情に任せた指導には敏感になってしまうわけです。

親が子に“しつけ“と称してやるものは、「子供のためだ」と言いながらも親自身の評価を下げないためにやってることがほとんどで、叱る、怒鳴る、報酬や罰を与えることでしか人を動かせないというものを露呈させてしまっている。

しつけができていないということを
子へと責任転嫁してると言っても過言ではないんです。

指導に関してはどうか?

これも同じで、指導を受ける側にとって考えてみて仮に

ここに同じ結果が得られる指導法が100あったとします。さて、あなたはどの指導法を選びますか?

ってなった時に、報酬をもらえる指導を選ぶことはあっても、罰走などの体罰的指導を選ぶ人は少ないはず。っていうかいないと思うんです。

でも、あの指導のおかげで」

って言う人ももちろん中にはいる。
ちょこっと前に体操選手の体罰問題が話題になったけど、まさにあの感情。

でも苦しきかな

体罰に対して「あのおかげで」って言うことでしかその日々を正当化できないんです。
だって、自分が過ごしてきた日々を否定したくないじゃないですか。

ましてや体罰がない世界から飛び出して活躍している人が身近にいたら、相手を否定するか自分を肯定するかしか自分を守れない。

指導者も自分自身を守りたいんです。

大敗したら選手の責任にしたい。自分の指導力を否定したくない。

監督も一緒に罰走するのならわかるけど、高みの見物でしょ?
もし一緒に走っていたのならそれは絆を深めるためにはよいかもだけど。

劣悪な環境の中、人を一定の水準まで上げるためには時に強制力は必要です。
でも効果はそこまでだし、ましてやプロ野球選手にやることではないし、きちんと練習しようとする子供たちにすることではないわけです。

「じゃあどんな練習がいいんだよ。結果出てることもあるだろう」

と言われそうですが、“結果が出てるっぽい幻想“なだけ。上手な子はもともと上手で、うまくその罰を潜り抜けてる。聴いたフリしてる。陰でサボれる。

仕事も一緒で、上手な人ほど手をうまく抜ける。休める。

マジメで一生懸命な人ほどこの指導の中で才能を潰されていくんですよ。

罰と報酬。

使い方間違えると悲劇を生む。

子供たちの手本になるプロの世界から変わっていって欲しいなと願う今日この頃です。
というか野球始めた小学校1年生の時からずっと思ってる!

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