見えないもの。答えがないものを発見するための唯一の方法。
三女が動物指差してワーワーと言うので、牧場か動物園に行きたいけどコロナ禍でほとんど閉園。なので、大型のペットショップで小動物と戯れる。
先週末は福井には車もかなり出ててたし、昨日から子供たちは分散登校が始まって少しずつだけど人の動きが出てきた感がある福井です。
ウィルスは目に見えないし、目に見えないウィルスに人は狂わされて目に見えない不安や焦りを感じた。
今でも先の見えない経済などの状況に不安になる人も多いはず。
目に見えるものを「こうだ」と言うことはできるかもしれないけど、目に見えないものをコントロールするのは難しい。
愛とか恋とかも目に見えないし、不安や恐怖も「ここに持ってきて見せてよ」って言っても持ってこれない。
そんな見えないものに僕たちは震える。
でも、その見えないものを唯一可視化してくれるものが
考える
ということなんだろう。
いったいこの震えは何か?
なぜ焦っているのか?
このドキドキはなんだろう?
僕たちはなぜ生きているのだろう?
共通した答えなんてそこにはなくて、自分で考えて自分で答えを出していくことで自分にしか見えない“答えみたいなもの“に出会う。
子育てなんてまさにそれだね。
子育て本を擦り切れるくらい読んだって、目の前で起きることは答えのない事態ばかりが起きる。子供をみて自分の心もざわつくし、ざわついた心だと世界も歪んだりするし。
見えないものを考えていく。
その思考がないともしかすると見えてるものに対する意味すら失うのかもしれない。
このコロナ禍もどれだけ考えるか?で未来が変わるし、むしろ考えないと何も発見できずに取り残される可能性もある。
僕は見えないものを商品にして売っているけど、その商品も考え続けないと価値が生まれてこないよね。
毎日が思考の繰り返し。
なぜ?どうして?
自分自身に対するその疑問の投げかけが、問題を解決する一歩。
今日の無限の問いかけをして、答えのないところに答えを見出していくんだ。
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