もしも君が明日いなくなるのなら。
集中して取り組まなきゃいけないことがあって、しかも認知資源を使いまくるものだったから資源の節約でブログも書かずに放置。
一旦少し落ち着いたから久しぶりにブログを書いています。
今年の夏は子どもたちの休みも10日ほどしかなくて、いつもと違う夏。ただ、それでも空いた時間は思い出づくり。
海と一緒に。
最近は一日〜二日に一本映画を観ていて、現実世界と作られた世界を行ったり来たりしながら日々を過ごしているんだけど、先日観た
『君の膵臓をたべたい』はよかったなぁ。
僕は21歳くらいの時に自殺しようとしたんだけど結局死ねなくて、その時初めて“命には期限がある“ことを自覚しました。
人は死んでいったけど、どうしても自分ごととして捉えられていなかったんだと思う。
病気でもなんでもなくて(胃炎やらうつやらで病気っぽかったけど笑)、自殺でそれを自覚するって不思議な感覚だけど、あれがあったからこそなんだか今でも目の前にあることがすべて「これが最期だったら」と思える。
素敵な女性には「素敵ですね」と言いたいし
美味しいご飯ならば美味しいと思いたい。
子どもたちとの一瞬を大事にしたいと思うし
1分でも無駄な時間として捨てたくない。
妻とはどんな記念日よりも一瞬の時を大切にしたい。
『君の膵臓をたべたい』はまさにそれを改めて教えてくれるものだった。
だって、明日が来ることなんかどこにも保証はないじゃんか。計画なんか計画通りにはいかないものだし、無理に作った模型は必ず壊れるし。
のらりくらり、水のように時を感じたいよね。
震災だって、コロナだってそれを教えてくれているのに、いつも僕たち人間は当たり前に明日が来るって思っていて、いつもいつも日々を積み重ねると同時に未来は明るくなっていくって思ってる。
そんな同じことを繰り返す人間もダサくて素敵なんだけど。
正直、僕は社会的にはクズだし汗水垂らして働いてもいないから、生き方を立派に語ることなんかできない。
だから子どもたちにも偉そうに上からものを言えない。いつも子どもたちから学んでばかりだ。
もしも“君“が明日いなくなるのなら
僕は今と同じように生きると思う。
最高地点にいくことはいつの日か諦めた。
諦めたというか概念を捨てた。
売り上げの最高を目指そう。
もっと幸せを感じよう。
人間として完璧になろう。
そんなことよりも
今日、“君“がいてくれることで満足なんだ。
明日会えなくなるかもしれない“君“が、今、ここにいればそれだけでいいんだね。
でも不思議なもので、諦めてからは“今“を生きている気がする。今が最高のような気がします。
まるで悟れないことを悟ったかのような感覚。
さぁ。今を生きよう。
もしも“君“が明日いなくなるのなら。
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